🍜 食べられることは、当たり前じゃない
先日、昼食にうどんが出ました。
介護施設では珍しくない、定番の献立です。
しかし、その日に限って、三人の利用者さんがむせました。
「今日はうどんが強い(すすりやすい)ね」
スタッフ間でそんな会話をしたあと、二人が夕方に発熱し、一人は検査を受けることになってしまったのです。
後日、すぐに食事形態の見直しが行われました。
現場ではよくある日常の一コマかもしれません。それでも、私は少し考えさせられました。
食べやすいものが、安全とは限らない
うどんは柔らかくて、ツルツルと口に入りやすい食べ物です。
けれど、**「すすりやすい」ぶん、実はとても「むせやすい」**という側面を持っています。
本人は「食べやすいよ」と笑顔で言う。
でも私たちは、喉が動く様子、飲み込む瞬間をじっと見つめながら、少し緊張している――。
飲み込む力(嚥下機能)は、目に見えない速さでゆっくりと変化します。
その小さな変化に、私たちは気づきにくいだけなのかもしれません。
「自分で食べられる」と「安全に食べられる」は別の話
食事介助というと、一般的には「自分で食べられない人を手伝うこと」というイメージが強いかもしれません。
しかし実際には、スプーンを自分で持てる人であっても、介助が必要になるケースは多々あります。
一口の量が大きすぎる
完全に飲み込む前に、次の一口を口に入れてしまう
食事中に何度もむせが続く
そういう時は、本人の安全を第一に考えて、あえてスプーンを一度お預かりし、スタッフの手で一口ずつ介助することがあります。
安全のため。頭では分かっていても、心のどこかで「本当は自分のペースで、自分で食べたいだろうな」という思いが消えません。
献立表を見に来る人の、本当の楽しみ
毎日、ホールにある献立表を熱心に見に来る利用者さんがいます。
「お昼は何かな?」「夜は何が出るの?」
それを確認するのが、その方の毎日の大切な習慣です。
食事は、ただの栄養補給ではありません。
一日の大きな楽しみであり、季節を感じる瞬間であり、生活のメリハリそのものです。
けれど、その方が実際に召し上がるのは、細かく刻まれたりミキサーにかけられたりした「嚥下食」です。献立表に載っている写真の料理とは、見た目がどうしても異なります。
「安全に美味しく食べてもらうため」と分かっていても、写真を見つめる後ろ姿に、少しだけ申し訳ない気持ちになることがあります。
ブリックゼリーになった日。もし自分だったら……
今回、うどんをきっかけに食事形態が変わった利用者さんは、ソフト食から「ブリックゼリー(高カロリーの栄養補給ゼリー)」が中心の生活になりました。
誤嚥(ごえん)による肺炎のリスクを考えれば、命を守るために絶対に不可欠な判断です。
ただ、「もし自分だったら」と想像せずにはいられません。
朝も、昼も、夜も、お皿の上にあるのはゼリーだけ。
それが「安全だから」という理由だとしたら、私は食べる楽しさを持ち続けられるだろうか……と。
私も最近、むせることがある
実は最近、自分の唾液でふいにむせることがあります。
急いで水を飲んだときに、激しく咳き込んでしまうことも。
普段は「ちょっと喉に引っかかっただけ」と気に留めません。
けれど、目の前の利用者さんたちを見ていると、「食べられなくなること」は決して遠い世界の、特別な話ではないのだと痛感します。
私たちは誰しも、少しずつ、確実に変わっていくのです。
食べられることは、当たり前じゃない
今日も私は、自宅で普通にご飯を食べました。
どこにでもある、特別なものではない普通の夕食です。
それでも、施設での一日を振り返ると、その**「普通に噛んで、普通に飲み込めること」が、どれほど奇跡的で、大切なことなのか**を思わずにはいられません。
食べられることは、当たり前じゃない。
介護の現場に身を置いているからこそ、この言葉の重みを日々、肌で感じています。